夏の終り

夜ふけ洗面器の水を流す
地中の管をおもむろに移り
遠ざかってゆく澄んだ響き
一日の終りに聞くわたしの音が
たかまるシンフォニー
節まわしたくみな歌でないことの
ふしぎななぐさめ
キュウリの種子
アリの死骸
魚の目玉
ケラの歌
《ほろび》というなつかしい響き
それらに空気の枝のようにさわりながら
水といっしょに下水管をつたい
闇にむかって開かれてゆく
わたしひとりの眼
ひと夏はこのようにして埋葬される

詩を書こうと思うときに、僕の場合には、日常生活を眺めてその中から出発する詩を書く、ということは滅多にしたことがありませんでした。この詩を書いたとき(一九六〇年代)には、自分にはちゃんとした日常生活がなかった。そんなものは犬にくれてやれ、みたいなことです。日常を離れたことを考えていたかったのです。

でも、それは自分の最大の欠点だということはわかっていました。だから、日常的なものをとにかく書きたいと思って、この詩を書きました。この詩では、日常生活を十数行の詩に書けたことだけに満足しました。「しめた」という感じです。

「キュウリの種子」とか「アリの死骸」とか何でもないものをいくつか呼び出して、夏の終わりという雰囲気を出そうと思いました。日常的で捨てられるものを、言葉として一つ一つ、一行一行まっすぐ立ち上がらせてみたかったのです。横にべたっとした日常生活ではなく、ということです。

これが詩としていいかどうか、自分にはわからないですけれども、自分自身の中で一つ殻が壊れたという印象があった詩です。

(出典『透視図法――夏のための』一九七二年 書肆山田刊)