肖像

荒けずりの額のなかに
野や街が沈んでいる
きみはいつも
めざめの裏側からやってきた
その出現は
沖をめぐる微風のような
始まりのない持続
樹々が姿を消した森にわなないている
永遠の正午 永遠の伝説

鳥のあしゆびを炎がふちどるゆうべ
きみは小さな燃える雲だ

きみのなかの子午線や
あざやかな環礁のうえを
まっさおな魚が群れて通る
藻のあいだには 遙かな塔をみつめている

その燃えつづけるコロナ

きみは裏を貼ってない 鏡だ
涯しらずその内側にぼくは墜ちる
あるときは
きみの内部に垂れている ブランコ
子供らの姿はなく
秋がひっそり腰かけている

だがきみは
とりわけ天に逆流する美しい嵐
稲妻を越え 期待を越えて
宇宙のへりに差しのべられた十本の指
その熱い 唇のように感じやすい 指さき

はるかな微風が
きみに海のイメージをかえす
灼けている さわやかな腋毛
きみは無限に歩む

動きにこそ 形がみごとに保たれていると

詩をつくる場合には、どういうアイディアを中心に置くかということが大きな問題です。ここで中心になっているものは、「始まりのない持続」「永遠の正午」「裏を貼っていない鏡」というイメージです。正午は時刻ですから動くものですし、裏を貼っていない鏡は映らないのですから、ありえない。そういう矛盾する観念をことばの中で実現しようとしました。最後の二行、恋人(きみ)は「動きにこそ 形がみごとに保たれている」ということを証明するために存在している、というのも、「矛盾したものが現実にそこに存在している」ということを言いたかった。イメージの中であり得ないものをあり得るように作り出すということ、それがこの詩をつくってみたかった最も重要な理由でした。それができるのが詩の力であると思っています。一般的には存在しないと思う人が多くても、じっと頭の後ろ側で、「そうではないよ、別のこともあり得るんだよ」と考えていることは、とても大事なことじゃないか、という気がします。

(出典 『記憶と現在』一九五六)