二十歳

空はからりと折れんばかりに晴れわたる。その空の下で軒なみに壁が割れる。壁の割目を霧が埋める。蔓草が這う。荒廃はすでに私のみではない。

ああ この二十歳の磁場のそとに、寂莫たる葦の湿地。思念の周囲にもりあがる大河のとりで。
骰子はとうに投げられている。しかも私をこの岸にとどめるものはなにか。悲しみは私の内部に階層をなし、私はそれらの置きかえにのみ熱心だ。

梢にそよぐ風を私は、聞く、しかも私は聞いていない。かなたにひろがる葦の湿地が、あまりに私を惹きつけるのだ、あまりに私を突き放すので。

すでに整然たる磁場はくずれた。私は沙上をさまよい歩く。私は窓に記憶のノートを撒き散らす。落日。森の長い影が私の内部に伸びている。私は夜に入ってゆく。

一番初めに出した詩集『記憶と現在』に収めた詩です。この頃は、「夜」とか、「沙(砂)上をさまよい歩」いたとか、「森の長い影が私の内部に伸びている」とか、寂しい景色ばかり書いていました。こういう心象風景を心に抱いていたのですね。だから、この男は付き合いにくかったであろうと思います。

自分の若さを客体化して見ることができなくて、自分の考えていることは、全世界の誰にもわからないだろうと思っているくらい、傲慢不遜なのですね。

この詩の底には、二十歳前後という年齢ゆえに持っている、女性への屈折した憧れがあります。その思いは成就するはずのないものであり、成就しても困ってしまうということは、わかっています。そういう、自分にはどうにもならない思いを書いているのですけれど、それが、客観性はおろか、人にはチンプンカンプンにしか思われかねないような作品となってしまう。ぶざまなことですが、若いというだけで傷ついている一生懸命さもそこにはあるのです。

(出典 『記憶と現在』一九五六)