青春

あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった。おごる心の片隅に、少女の額の傷のような裂目がある。突堤の下に投げ捨てられたまぐろの首から吹いている血煙のように、気遠くそしてなまなましく、悲しみがそこから吹きでる。

ゆすれて見える街景に、いくたりか幼いころの顔が通った。まばたきもせず、いずれは壁に入ってゆく、かれらはすでに足音を持たぬ。耳ばかり大きく育って、風の中でそれだけが揺れているのだ。

街のしめりが、人の心に向日葵ではなく、苔を育てた。苔の上にガラスが散る。血が流れる。静寂な夜、フラスコから水が溢れて苔を濡らす。苔を育てる。それは血の上澄みなのだ。

ふくれてゆく空。ふくれてゆく水。ふくれてゆく樹。ふくれる腹。ふくれる眼蓋。ふくれる唇。やせる手。やせる牛。やせる空。やせる水。やせる土地。ふとる壁。ふとる鎖。だれがふとる。だれが。だれがやせる。血がやせる。空が救い。空は罰。それは血の上澄み。空は地の上澄み。

あてどない夢の過剰に、ぼくは愛から夢をなくした。

この詩の中で、気になることばは、「あてどない夢の過剰」ですね。あまりにも夢見る気持ちが強すぎて、そのために、一番大事な一つの実質的な愛からは、逆に真実の夢が奪われてしまった、と言っています。この詩の考え方は、アイロニカルです。つまり、プラスと言えばマイナス、マイナスと言えばプラス、とあまのじゃく的に反対のことを言うことが、当時のぼくは非常に多かった。

若いひとは、ときどき、何か言いたいことがあってもそれを言わずに、他のことをたくさん言って、そのために言いたいことまでわからなくなってしまうことがあります。でも、あまり自分の心情をもてあそんでアイロニーを好んで使ってばかりいると、詩がやせてくるということがあります。そしてこれは、詩だけの問題ではなくて、ぼく自身の生きかたの問題でもありました。素直に受け止めたり、何かにぶつかってゆくことができなくなってしまう。この詩は、その苦しい感じを思い起こさせます。

(出典 『記憶と現在』一九五六)