レポート

旅人と憶良の作品がなぜこれほどにも面白いのかと、大岡信は自問しています。「それを説くことは、生れたときからずっと『日本語』の世界で育ってきた私にとって、ほとんどスリルに満ちているといってもいいような仕事でした。私は、自分が面白がれるものなのだから、他の人にもそう思ってもらえるだろう、というただそれだけの見当で、これらの難物に取組んでいます」(『私の万葉集(二)』)、と。
 旅人と憶良が生きたのはいまから1300年も昔のこと。にもかかわらず、彼らの歌は、生まれたときからずっと「日本語」の世界で育ってきた私たちにとって、まるで隣人のことのように面白い。なぜでしょう。「自分が面白いのなら他の人にもそう思ってもらえるだろう」というのは、じつは、もし旅人と憶良が生きていたら、彼らも大岡信たちの訳詩や鑑賞を面白がってくれるだろうということなのです。大岡信は秘かに自分と彼らを重ね合わせている。西洋文化が押し寄せるなかで育ってきた自分たちと、中国文化が押し寄せるなかで育ってきた彼らとは、ほんとうはとても似ている、と。
 旅人も憶良も決して順風満帆の人生を過ごしたわけではありません。その二人が九州の大宰府という任地で出会い、濃密な文学的交流を繰り広げます。いわば当時の最先端の文芸サロン。大岡信はそのサロンを、まさに同時代を生きる感覚で鮮やかに復元してみせます。大岡信ことば館は詩歌のタイムトンネル!

<展覧会アルバム>