「折々のうた」展

/2015年3月29日

「折々のうた」をおもちかえり展、21日にオープンしました。
思っていた以上にいろいろと作り込む物が多くて、
またまたブログの更新が出来ないまま2ヶ月が経ってしまいました。
申し訳ございません。
もうすぐに次回展の準備が始まりますが、
また少しずつブログも更新していきますので、
どうぞ時々はお立ち寄りください。
最近、思い出したようにモノクロの写真も撮っていますので、
その辺も少しずつアップできればと考えております。
今回の展示の楽しみ方については、
スタッフのブログの方で丁寧に解説していますのでそちらを覗いてみてください。
このような形の参加型の企画展もなかなか良いでしょう?
ぜひ実際にご体験を!お待ちしております。

展示室

展示室

さわる

/2015年1月20日

大岡さんの詩に「さわる」という詩があります。
人は他の事物にさわることで本当にたくさんのことを知覚し、豊かな感性も育つ、
そういうことに気付かせてくれる、僕の大好きな詩のひとつです。
しかしいざ自分の生活を振り返ってみると、
普段いかにこの「さわる」ことをおろそかに生きているかに気付き、
悲しくなります。
そうです、このままでは人生が単なる時間の浪費で終わってしまいます。
このままではいけません。
せめて今日からは、可能な限りたくさんの物に触れて、
たくさんのことを知覚して、
生き生きと生きましょう!

阿佐ヶ谷_0101

阿佐ヶ谷にて

写真は真実を写す?

/2014年12月11日

今までいろんな写真を撮ってきたのです。そしていつも思うのです。
写真は真実を写さないって。
報道写真のように、いつどこに誰がいてどんな状況であったというような見方をすれば、
おそらくなるほどそれは真実を写すと言って良いのです。
でも僕が撮りたいと思うような写真では、写真は真実を写すとは言いにくい。
例えば、カメラの眼は1つです、人間のように2つではなくて。
だから自分の見た目と遠近感がまるで違う。
それからアナログではフィルム、デジタルでは受光素子ですが、
そこに焼き付けられた情報や、そのあと展開されるであろう画像は、
明るさに対する許容範囲も、色域も、色感も自分の見た目とまるで違う。
だから、もちろん自分の眼で見ているものが真実であるとするならばですが、
写真は真実を写すとは言いにくい、絶対に、おそらく、たぶん。
だからいろいろ操作をするのです、写すときも、写したあとも。
ふむふむこんな風なのだとひとりぶつぶつ言いながら。
写真は写し手が抽象化しながら描き出す創作なのだよと、ひとりぶつぶつ言いながら。

地蔵堂川にて

地蔵堂川にて

日常と非日常

/2014年12月4日

少し前、「日常」「非日常」ということばが流行った時期がありました。
テレビや雑誌でも盛んにこの言葉を取り上げました。
「日常」は平凡で刺激的ではない日々、
それに対し「非日常」はそんな日常に刺激を与え気分をリフレッシュさせるビビットな時間、
多くはそんな語られ方をしていたと思います。
日常に対して非日常はどこかキラキラ輝いたイメージと言ったら良いでしょうか。
まあ遠くからボーッと眺めていれば、だいたいそんなところかなという気分に落ち着くのですが…、
もちろん僕自身、野山を歩けばとても良い気分転換になりますしね。
でもこのふたつの言葉にぐっと近づいて考えてみると、
どこかしこりのようなものが心の隅に残るんですね。
だって人生に与えられた時間の大半は非日常ではなく日常の中に過ごすわけですから。
その日常が輝いていないってことは不幸ですよね。
だからそう、「日常」をうんと輝かせたい。
でもそれは不可能なことではないと思うんです、
毎日一瞬一瞬をピカピカの感性で生きることさえできればね。
そしたら日常は非日常を飛び越えますね、ポンッと。
素晴らしい日常の誕生です。新たな人生の開花です。

コンクリート_01

渋谷にて

いただきます。

/2014年11月28日

「いただきます。」
食事の前のこの一言、大好きです。
大きな生きものも、小さな生きものも、野生の生きものも、人が育てた生きものも、
知能が高いと言われる生きものも、下等であると言われる生きものも、
動物と呼ばれる生きものも、植物と呼ばれる生きものも、
みんなひとつの大切な命で生きています。
どんなに格好を付けたとしても、
私たちはそんな他者の大切な命をいただくことでしか生きることが出来ない。
だから、どんな命にも等しく感謝をする。
この国に遠い昔から生き続けている
この「いただきます。」の心が、
大好きです。

water_0101

Water

連詩の展示

/2014年11月14日

ブログの更新、しばらくご無沙汰してしまいました。
先日(9日)オープンした企画展「海を越えた連詩 ファザーネン通りの縄ばしご」の
展示物制作に掛かりきりになっていました。
4名の詩人(H.C.アルトマン、O.パスティオール、谷川俊太郎、大岡信)のとても不思議な詩が
複雑に絡み合い、ほどけ、フワリと浮き、水の底に沈み…と、延々と連なっていく有り様を
3000枚の切り文字と2500本のピアノ線を使って表現しました。
詩の一つひとつはもちろんそれぞれの詩人が一人で書いていくわけですが
前の詩を何らかの形で受けながら、恐らくすべてがなかなか思い通りにならない中で
自分の心を内に閉じ込めたり、外に飛ばしたりして
そこに紡がれていく世界をより広め、また深くしていくのですね。
一人で書く詩とは全く違う世界がそこにはあるわけです。
そんな連詩の予測不可能で不規則で、また簡単には着地しようとしない
連続した脳内空間のような世界を何とか視覚化したいと悩み抜きました。
会場中央ではこの4名の詩人による朗読も聞けるようにしています。
(1987年当時に収録されたもので、大岡さんの声も若いです。)
ぜひ一度、足をお運びください。お待ちしております。

ファザーネン通りの縄ばしご_01

ファザーネン通りの縄ばしご_01

ファザーネン通りの縄ばしご_02

ファザーネン通りの縄ばしご_02

ファザーネン通りの縄ばしご_03

ファザーネン通りの縄ばしご_03

名前の無い世界

/2014年10月18日(最終更新:2014年10月19日)

スズメ、ヒバリ、セキレイ、モズ、イワナ、ヤマメ、ハヤ、
シオカラトンボ、アキアカネ、オニヤンマ、トノサマガエル、アマガエル、ウシガエル、
アサガオ、キキョウ、レンゲ、ヒマワリ、キタキツネ、エゾシカ、ヒグマ、ツキノワグマ、
陸、海、地球、太陽、月。
この世の中はたくさんの美しい名前で彩られています。
でも彼らは自分にそんな名前が付いていることを知りません。
彼らはこの世の中をその名前で生きているわけではありません。
この世の中は私たちが理解しやすいように、それぞれに名前を付けているだけの世界。
人から見たときだけ名前のある世界。
でも本当は名前の無い世界。

徳和渓谷にて

徳和渓谷にて

自然物と人工物

/2014年10月6日

この世の中には自然が作り出したものと、人が作り出したものが横たわっています。
人の頭脳が作り出したものは、やっぱり自然が作り出したものより劣っている、僕はそう思うんです。
普段あまりにも人が作り出したものばかりに囲まれていると、この世界が見えなくなってきます。
視野がどんどん狭くなって、訳が分からなくなってきます。
これは自分の意思で見ているのか、それとも他者の思惑で見ているのか、それさえ分からなくなってきます。
人が作り出すものはもちろん大切です。
でもたまにはあなたの背中に広がっている自然にちょっと足を踏み戻して、
ゆっくりと腰を下ろして、そこからこの世界を見渡してみませんか?

瑞牆山不動沢にて

瑞牆山不動沢にて

山歩き

/2014年9月27日

最近、時間を見つけては山を歩いています。
このブログの写真を撮るためというのもあるんですが、
一度自分の原点に立ち戻るべきと考えたのが大きな理由です。
以前はよく山歩きをしました。
ピークハンティングもしましたが、それよりは樹林帯の中を歩くのが好きでした。
暗く湿った樹々、朝露を乗せた草、ふわふわの絨毯のような土、
ブナの葉に揺れる木漏れ陽、道脇の岩に落ちる樹の影、
小枝を渡るシジュウカラ、夕陽に溶けるヒグラシの声、遠い沢音。
様々な自然に出会って、その中に身を置いて、
いろんなものを見てきたし、いろんなことを感じてきました。
そうですね、もう一度ここから始めるのは悪くないですね。

西沢渓谷にて

西沢渓谷にて

1+1=1?

/2014年9月21日

十代の頃…、
1+1=1でも良いんじゃないかなんてことを考えていました。
その思いは今でも基本的に変わってはいないんですが、
いわゆる普通には1+1=2でしょう?
でも1の立て方次第、仮定の仕方次第で、
1に1を足したとしてもやっぱり1になるってこともあるんじゃないかと……。
もちろん僕は数学の専門家ではないし、
「それ違うね。」と言われればそれまでなんですが、
その後大学に通うようになってから観た
アンドレイ・タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の一場面で、
背景の壁に大きく「1+1=1」と書いてあるのを見つけたんです。
「あ、同じことを考えてる人がいる。」って。
まあほんとに同じことを考えていたのかどうか定かではないんですが……。
でもこういった四角い枠に嵌まらない発想って、
いつでもしていたいし、とっても大事なんじゃないかと。

徳和渓谷にて

徳和渓谷にて